2024年2月17日 練習風景


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楽楽・神戸のHPを長い期間担当いただきました14回生のS.ImさんとE.Imさんには本当にご苦労様でした。心から感謝いたします。今後は23回生のK.Nが引き継がせていただきます。

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マンドリン・パート M.Nさんのレポート

 

2月17日(土)暖かい日差しのなか、今日は阪神「鳴尾・武庫川女子大駅」で下車、「鳴尾公民館」に集まりました。新しい曲が続いて、パート譜を次々と作成していただき、ありがとうございました。

 

前半S.Ikさんの指揮

① 行進曲「旧友」:ドラ・セロは、137小節からのG部分をはずませて弾くように、2ndマンドリンは強弱pからmpmfと強弱を豊かに移動させて弾くようにとの指示がありました。

② Cavalleria Rusticana「カヴァレリア ルスティカーナ」:この曲を先ずiPadで録音を聴かせていただきました。ベルリンフィルをカラヤンが指揮している、ゆったりとした曲です。2ndの18 小節のフェルマータは削除します。マンドリンは8分音符をトレモロで弾きます。とても美しいメロディです。

③ 「微風 そよかぜ」:1947年武井守成さんの作品です。この曲もiPadでマンドリン演奏を聴かせていただきました。曲は♯2つから35小節で♯5つへと転調し、92小節で♯3つへと変わります。

 

「お知らせ」では新しい名簿とパート別名簿の2枚いただきました。会員総数61名、正会員56人です。

アンケートがメールで送られてくるので、出来れば2月中に回答をメールで返送ください。

体操はS.Oさんによって、肩まわし。首、腕を振って、気持ちよくリフレッシュしました。

 

後半S.Imさんの指揮

① 「ふるさと紀行のテーマ」:マンドリン8小節の終わりは、スラーと次のスラーに移る個所で切るように、14小節、34,35小節、 69小節と70小節のスラーの移動にも気を付けるようにとの指示がありました。

この曲のマンドラとセロが美しく、ギターとセロとのアンサンブルは特に深みのあるきれいな響きでした。

② 「ピエレットのセレナーデ」Munier:

2ndマンドリン、10小節はトレモロ、14小節は柔らかくトレモロで、強弱を際立出せて曲をふくらますと楽しめます。

③ 「パリは燃えているか」:

2ndマンドリン:57から64小節はゆっくりとトレモロではっきりと重々しく弾くこと、49小節からは音を大きく響かせて弾くようにとの指示がありました。

 

暖かい夕暮れの阪神鳴尾駅からそれぞれ家路に急ぎました。

 

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              楽楽の”おあしす”タイム

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楽楽おあしすタイム 海外よもやま話 その3 ブラジャー余話(前半)

 

11回生M.Nさんの海外よもやま話 その3 は、国を中国からインドネシアに移して40才の時にかかわったブラジャーにまつわる話となります。

これは、2022年に現在M.Nさんが理事として携わっている京都の精神文化学会の「仕事論」と題する学術大会で「仕事師を目指すあなたへのアドバイス」と題して、学者ではなく一介のビジネスマンとしての経験を、大学生を含む30才までのZ世代の聴衆に話した講演のなかで挙げたエピソードです。なお、学生向けの堅苦しいお説教は我ら高齢世代には、言わずもがな、端折りました。

仕事人から仕事道 ⇒ 仕事師

西欧社会では、すべての仕事をworkの動詞で表現して、それを究めて社会に貢献する人をエキスパート expertといいます。日本語でいえば、「仕事人」つまり専門家ないし実務家です。これに対して、英語にはない素晴らしい「仕事師」という表現が日本語にはあります。日本人には、茶道・弓道・剣道・柔道とか、仕事を含むすべての行動を西欧社会では使われない「道」で、経済的利害を忖度しない社会的価値観に基づいた仕事を究める文化伝統があります。つまり、「仕事人」を超えて「仕事道」に打ち込むのが「仕事師」です。仕事師は自分の仕事に対する確固たる哲学と方針を持っていて、妥協は許さない。同僚や部下に対する要求水準が高く、カリスマ経営者としてのリーダーシップを発揮して高い業績を挙げる人が多い。

昨今の時節柄、このような自分に対する厳しさをパワハラと勘違いして社会的問題として騒ぎ立てるマスコミが後を絶たないが、本当の仕事師は趣味が豊かで家族や友人を大切にして、仕事以外でも一流の見識を備えています。

私の出会った仕事師 ⇒ 塚本幸一 ワコール創業者

そこで、私の60年の仕事人生で出会った多くの仕事師の内のひとりについて話を進めましょう。それは京都でブラジャーメーカー ワコール を創業して、世界的なブランドに育て上げた塚本幸一さんです。彼は近江商人を多く輩出している滋賀県五個荘の出身で、太平洋戦争で悲劇のインパール作戦に従軍して幸運にも生還して、昭和21年復員した当日にアクセサリーを詰め込んだカバンを抱えて行商を始め、3年後の昭和24年にブラジャーの生産販売を行う株式会社ワコールを設立、15年後の昭和39年東京株式市場第一部に上場を果たしました。

彼はブラジャーといえば欧米の輸入ブランド品しかなかった時にいち早くその将来性に着目して、今や国際的有名ブランドとしての地位を確立しています。彼は1998年78才で死去、ワコールは長男の塚本能交さんに継がれています。

ブラジャー インドネシアとの出会い

さて、当時36才の私は、1975年に5年のメルボルン駐在を終え、大阪支店の輸出部に帰任、合繊メーカーT社のポリエステルやナイロン糸輸出の業務を担当していました。ある日、その輸出先のひとつ、インドネシアの織物業者が織物よりも付加価値の高いブラジャーの生産も手掛けたいので、ブラジャーメーカーを紹介して欲しいと依頼して来ました。ワコールは当時すでに韓国・タイ・台湾にブラジャーの生産工場を持っていて、私はその3工場にブラジャーの生産に必要なT社のスパンデックス弾性糸を輸出していました。

この縁を活かしてワコールを紹介しようと、ワコールの海外事業部に声を掛けると、既に大企業のワコールですが、さすが仕事師の塚本社長、自分が進めるかどうか判断するからインドネシアの社長を連れて来るようにと。そこで私は1978年クリスマス直前の寒風吹きすさぶ京都に半袖でお土産のインドネシア特産黒檀の国鳥ガルーダを担いで来日した若者を伴って京都駅前のワコール本社の社長室に塚本社長を訪ねました。

社長室に通じるフロアの長い廊下にはフランス印象派のルノワール、セザンヌ、ドガ、モネやマチスなどの本物の絵画が掛けられていて、連れて来るところを間違えたかと、一瞬ヒヤッとしました。社長室には塚本社長と我々二人だけ、インドネシアでブラジャーの生産工場を立ち上げたいのでM物産と現地と三社の合弁工場を設立するパートナーになって欲しいと申し入れました。

(ワコールの仕事師とのビジネスはどのように展開してゆくかは、次号の後半に引き継ぎます。)

更新日:2024/02/22