2023年10月21日 練習風景


 

ドラ・パート K.Tさんのレポート

 

              今日の例会は御影公会堂

 

 

        昨日とは違い肌寒い中、42名の参加がありました。

 

・前半はS.Ikさんの指揮

 

    まず、コンサートの順番に楽譜を並べておくように指示がありました。

           曲順は、8月9日に配信されています。

 

①レナータ

  一回通しました。集中してて良かったと言っていただけました。

 

②神様のカルテ

    10小節からのドラのメロディー、2分音符をひっぱらないこと。

  どうしても、ひっぱり気味に弾いてしまう所なので、気をつけないと。

 

③栄冠は君に輝く

  今日は合唱隊が入って下さいました。

  メンバーは、マンドリンよりK.Iさん、ドラよりR.Iさん、ギターよりY.Iさんが

  歌って下さいました。

 

④昭和歌謡スーパーエキスプレス

  気持ち良く弾けました。懐しく、昭和の人間ですね~。

 

①③④に関しては、特に部分的な注意はなく、仕上がって来ているように感じます。

 

⑤山の印象

  4楽章通した後、気になる部分として

  3楽章▢B ドラとギターが上手く合わないので、何度か練習。

  ドラの16分音符をリズムに合わせるのが難しく、ギターの音を聞きながら指揮も

  見れるように練習が必要です。

  4楽章のラスト 381小節からaccel.で徐々に速くしたい。

                         何度か繰り返しました。

 

・お知らせの時間

  演奏会の衣装について

    男性 上は白 下は黒 ネクタイ1部は自由、2部は金色 黒靴

    女性 上 1部は白、2部はグレー 下は黒 黒靴

 

  チラシが配られました。全部で630〜650枚くらい。

    来て頂いて入れないことがあると困るという意見あり、再度人数確認をする

    予定です。

 

 

・後半はS.Imさんの指揮

 

    今日も強弱中心の練習をして、次回より通すようにしますとのこと。

 

①瑠璃色の地球

  26小節〜31小節でfまでクレッシェンドして、4伯目裏でmpに落とす。

  ラスト87小節〜92小節でfまでクレッシェンドするように。

 

②いのちの歌

  53.54小節でfに上げて、55小節でpに落とす。

 

③サウンドオブミュージック

  124小節のフェルマータの後、指揮に合わせて次に入ること。

 

④ファンタジア九州

  まず通しの予定が、110小節のドラメロディー部分が合わないため止まることに

  とにかく走らないように、4分音符をしっかり保つこと。

  ドラパートの大切な部分、

        しっかり練習して自信を持って弾けるようにしなければ。

 

          演奏会まで、後4回の例会となりました。

     良かったねと言って頂けるよう、演奏会に臨みたいと思います。

 

 

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               楽楽の”おあしす”タイム

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          故 宮本文彦さんを忍んで

 

  11回生ギターパートの宮本文彦さんが9月24日にお亡くなりになりました。

              突然のことで驚いています。

           皆様と共にご冥福をお祈りいたします。

 

             今年の5月 お元気だった宮本さん  

  

     多くの皆様から追悼の言葉や思い出話などをいただきました。

           投稿いただいた順で掲載しています。

          お名前は省略しています。ご了承ください。

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沢山の感謝と・・・

 

 何年か前、11回生だけで、宮本さんのお宅に伺ったことがありました。白土さんが

おいしい絶品の鯖寿司を作って持ってきて下さり、皆でご馳走になりました。

 又、”ハトの部屋を見したろか?・・“と仰るので、私は何のことかと思っていましたら、ヱツ子さんの3人のご兄妹の素晴らしい書が飾ってあって、感動しました。

 学生時代からずっと変わらず、温かく優しく皆に接し、リードしてきて下さった

宮本さんの笑顔が浮かんできます。誕生日の自己紹介を、提案して下さったのも宮本

さんでしたね。今は、宮本さんに対する沢山の感謝と寂しさの日々です。

 

 

 

 

 

 

               2枚だけですが写真が

  ありましたので

 

 

 

 

宮本君を偲んで

 

 宮本君の、人付き合いがよく、世話好きで、ユーモア心にあふれた人柄については皆さんご承知の通り、そんな彼を悪く言う人間はいないと思います。

「楽々神戸」も、様々なことで、彼のお陰を蒙っていることは周知のことでしょう。

そもそも、この文が載せられる「オアシス」の名前も、彼が神戸大マンドリンクラブ時代に、メンバーの親睦を図るため、新聞の発行を提案し、その名を「オアシス」と名付けたことから来ているのではないたでしょうか。

 

 私は、神大マンドリンクラブ以来の付き合いですが、その気配りに永年甘えっぱなしで、今更ながら、その有難味を噛みしめています。

彼の中では、付き合いの序列があったように見受けますが、誰とも分け隔てなく交際し、誰も皆、自分の方を向いてくれていると感じさせるような人柄でした。

 その一つに、彼は、自分のことを話すばかりでなく、人の話にもよく耳を傾けてくれる人柄だったからではないかと思います。

 私に対しても、彼は、うまく質問をしたり、水を向けたりして、話を引き出すのが上手でした。変にへりくだらず、対等な話し方をしていました。いうことも、時には

一刀両断のこともありましたが、しかしそれがユーモアを含んでいるので、腹も立ちません。

 

    彼に最後に会ったのは、約1年半前、「柏木君を偲ぶ会」の時でした。

 

 私は、少し遅れていき、駅を降りたところで、彼とばったり

出会いました。私が、会場への道順を聞くと、それを教えるだけでいいのに、もう一度引き返して私と一緒に会場へ行ってくれたのです。当時、雨が降っており、風も多少あって、寒かったと記憶しています。彼にとっては、ごく自然の行動だったかもしれませんが、こういうところが彼の身上でした。もっとも私の方も、このまま彼と別れるのは残念な気がして、同行してくれるように頼んだのかもしれません。その後、喫茶店にも付き合ってくれ、互いの近況などを報告し合いました。

話の中で、私が、先日血管年齢を測定してもらい(当時84歳でしたが)「68歳相当」といわれたことを自慢すると、彼は笑いながら

               「そら、器械が壊れてるんやで」と宣言しました。

  こういうつまらないことも、彼との思い出の一つとして懐かしく思い出します。

 

 彼から色々と借りを受け、そのお返しをしなければと思っている中にいなくなってしまい、残念ですが、なまじっか付き合いを続けていると、更に借りを膨らまることになっていたのではないでしょうか。

 とはいえ、あの世とやらへ彼が一足先に行った後を、私がいつか追いかけていって再会し、また付き合いが始まるのを楽しみにしているような心境です。

 

 

宮本文彦さんを偲ぶ

 

     KUMC卒業アルバム 1963.03.24 宮本君の私あてメッセージです。

 

 

  彼の人に対する観察眼は常にやさしく、しかし鋭い!呑気な私はいつも見透かされている、良き友達だった。

 宮本君はKUMCの仲間の集まりにはこの写真のようにいつも端に座って目立たないが、時々突飛な話題を出して皆をなごますタイミングは絶妙。もっと長生きしてほしかったよ。宮本君!

 

          

            1993.01.03 仙人代官での新年会にて同期の仲間

             左から 宮本・室谷 広瀬・白土・落合・永松

 

 人生の終局に向かう80才を過ぎて辿る道行きはそれぞれだが、お互いこの写真の

笑顔を絶やさないようにガンバロウとパウロ宮本文彦君は天国からエールを送ってくれています。

               ありがとう、宮本君。

 

宮本文彦さん!

 

 いつものようにあなたに電話しそうになって、気が付きました。そうだ、あなたはもう天に帰られたんだと。

        少しはにかみつつも、だんだん明るく声が大きくなって  

     時折ユーモアを交えながら応答くださった懐かしい想い出を残して。

 

 ここで60年あまりタイムスリップ・・・KUMC復部からの猛練習、合宿、サマーコンサートを経て定演開催まで2年足らずの間に突っ走ったあの頃、時として部内

が尖った空気になったことも。そんな折、いつも和やかな雰囲気にしてくださったあなたのお人柄とお心遣いに、私たちはどれほど助けられたことか。

 

 そして、卒業後も本山の貴宅に皆で集まって歓談したり、麻雀したり、また播磨の別荘に泊まってゴルフもよく楽しんだし、西神の別宅の近くのコートでテニスもしましたね。

 個人的には宮本ご夫妻と私共夫婦で何度か信州にドライヴ旅行をして、17回生の荒木氏が経営するペンション[クロイツェル]に泊まり蓼科、霧ヶ峰や姫木また清里や上田あたりまで周遊したことなど楽しく思い出されます。あなたの心深さと優しさを改めて感じたひとときでもありました。

 

 KUMC関係メンバーの絆を深めようと60年前にあなたが創刊してくださった

オアシスに、今、私たちがあなたの追悼文を記すことになろうとは。

 

        神戸は秋が深まりました。そちらはいかがですか? 

           あなたのことだから天国に温かく迎え入れられて

          天使たちを笑わせていることでしょうね。

 

 

宮本文彦さんの思い出

 

 この度、私にとっては大先輩の宮本さんがお亡くなりになられたことは、誠に残念なことであり、心の片隅に穴が開いたような思いです。

 

 宮本さんとは、6学年も異なるため、学生時代は全く存じ上げませんでした。私が2003年4月に楽楽・神戸に入会してからの繋がりでした。同じギターパートで、いつも飄々とした感じで例会に参加されていました。

 特に印象深いのは、春、秋の合宿のオアシスタイムには、持ち前のサービス精神でいろんな企画で、合宿参加者を楽しませて頂きました。また皆で合奏している時でもそっと演奏を抜け出し、皆さんの写真を撮られたりもしていました。

 

思い出―1

 宮本さんがお元気だった頃、ギターを先生に習われていましたが、どんな曲を練習されているにか伺ったところ、「いや曲なんてほとんどやってない。先生といろんな雑談をしているだけや」というようなことを言われて、いかにも宮本さんらしいなーと思いました。

 そのギターの先生は、クラシックギターの神様と言われているセゴビアに心酔されている方で、私も一度ギターの修理をお願いした時に、宮本さんと一緒に教室に行きギターに関するいろんなお話を聞かせて頂き、楽しいひと時を過ごしました。

 

思い出―2

 コロナ禍ではありましたが、2020年9月末に膝の手術をされたNさん(宮本さんの同期)のお見舞いを兼ねてギターを聴いて頂くためにご自宅に伺いました。その時、せっかくだからということで、宮本さん、15回生Sさんも来られました。

 

 

  小生のつたないギター演奏を何曲か聴いて頂き、その後皆で会食をしました。

  その時、宮本さんは耳が聞こえにくく、十分音が聞こえなかったご様子でした。

 家でも会話が成り立たないとも言われていました。でも、まだまだお元気そうで

 これまた楽しいひと時を過ごさせて頂きました。

 

 楽楽・神戸にとってかけがえのない方が亡くなられて、本当に寂しい限りですが

  これまで宮本さんが楽楽・神戸の皆さんに注いで頂いたお気持ちを忘れずに

            これからも過ごしたいと思います。

 

         宮本文彦さん、どうか安らかにお眠りください。

 

 

宮本文彦さんから受け継いだこと

 

 宮本文彦さんに初めてお会いしたのは、<楽楽>に入会してからです。

どういうご挨拶をさせていただいたかは覚えていませんが、ニコニコとお声掛けくださったことと思います。

 

 ”オアシス“を創刊された先輩と知りました。

”オアシス“は、私のクラブ現役時代も部内コミュニケーション誌として受け継がれており、20回生が運営を任された時は栗野さん(現:野口さん)と内マネを担当し、ガリ版刷りで”オアシス“を発行していたことを懐かしく思い出します。

KUMC創部100周年の記念誌18ページに「会報“オアシス”の発刊」という宮本さんの一文が掲載されています。

 

 これから巣立っていく私たちの行く末には長い長い道が続きます。

ずーっとずーっと続く果てしない道が。どうかこのマンドリンクラブが貴方にとっていつまでも心のオアシスとしてお役に立ちますようにという願いをこめて、会報の名前を「オアシス」と名づけ、表紙には「未来へと果てしなく続く道」を描いた創刊号を昭和36年(1961年元旦に発行しました。)(以下略)

 

 この思いが「弦友会(弦を絆とする友の会)」の発足(1963年1月)につながったと信じています。

 

 私は現在弦友会の事務局を担当しており、2018年の“第6回マンドリンクラブのつどい”では、宮本さんに往時のクラブ活動と現役部員へのメッセージを語っていただきました。

 

 時代が移り、近年はコロナ禍の影響もあって、KUMCの活動も停滞気味です。

部員を確保し留めるために、ややもすると活動内容が同好サークルの方向に流れがちです。現役部員にはマンドリン・ギターとひたむきに向かい合って、少しでもよい合奏をするという本来のクラブ活動を続けてもらいたい。

      でなければ、宮本先輩の「ずーっと続く道」が残らないのです。

 

 先日の葬儀に参列して宮本さんのいつもと変わりない笑顔の写真を前に、改めて「つなぐ」気持ちを持ったことでした。

 

       宮本さん、お世話になりました。ありがとうございました。

 

 

“宮本さん、みやもとさ~ん”

 

 あまりにも突然のお別れ、そして最後のお別れができなかったこともあって、天国に逝ってしまわれたなんてまだ信じられずにいます。

今日にも「居るかぁ」と言って事務所の戸を開けて入ってきそうな・・・。

 

 最後にお会いしたのは亡くなる10日ほど前、近くのコープさんでご夫婦仲良く買い物をされていました。声がけして3人でしばらく立ち話をしました。そして「ダンナによろしくな!」と言って笑顔で手を振ってお別れしました。

 

 その1ヶ月ほど前、「アイルランドに行きたいねん、君らが行ったときの写真を見せてほしい、また話しも聞かせてほしい」と電話がかかってきました。それで写真を大きくプリントアウトしたものやCDに焼き付けたもの持ってご自宅を訪ねました。

 パソコンで写真を見ながら、いろいろお話をしました。

 

・アイルランドでは英語の他アイルランド語(ゲール語)

 が第2の公用語、交通標識などには両方記されている。

 

 

 

 

 

 

・モハの断崖-高いところでは200m以上もあり、柵の

 無いところが多く、落ちても自己責任。 

 

 

 

 

 

 

・アラン島のアラン編み-漁師家々に独自の模様が

 あり、海で遭難したときはその模様で見分ける。

 

 

 

 

 

 

・タラの丘-世界中アイルランド人の心の故郷、

 「風と共に去りぬ」で有名 晴れた日にはここから

 国土の25%が見渡せるとか。 

 

 

 

 

 

・ホテル近くのアイリッシュパブ-地元の人が集まっ

 てケルト音楽を演奏 ギネスビールなどを飲みながら

 聴くのは誰でもOK。宮本さんはジュースでも可 

             などなど・・・・

 

 

 

 宮本さん、メモをとりながら熱心に聞いておられました。それが亡くなるたったの一月あまり前のことです。

     今頃は天国から、行きたかったアイルランドを見下ろしていますか

               楽しんでいますか?モハの断崖はすごいでしょう。

 

 家と事務所が近いということ、そして奥様と名前が一緒ということもあり、何かと気に掛けていただきました。4つも年上なのに先輩面することも無く、いつも笑顔でユーモアのセンスにあふれ、人を喜ばせたり楽しませたりすることが大好き。

 

 愛車はトヨタのクラウン、タクシーに多く使われているとかで「丈夫やから安心して乗って」と、良く送り迎えしてくれました。

 運動のため近くの保久良神社に良くいかれていましたが、「孫の合格祈願したら、お陰で東京の大学に合格した」と報告してくれました。「宮本さん、それ、《の》は要らないんじゃないですか」というと「そうなんや」ととても嬉しそうでした。

          そんなときの笑顔を思い出すと、まだ涙が滲みます。

        宮本さん、いろいろいろいろ本当にありがとうございました。

 

      楽しいお付き合いを、もっともっともっと続けたかったです。

 

 

宮本さんを偲ぶ

 

 1年次上の先輩は、直接指導受ける関係に入るため、とにかく兄貴のような存在でした。宮本さんはギターを教えてもらう関係ではあまり記憶に登場しませんが、そのほかのことでは印象が強く残っています。

 

 和やかな人柄、いつも人を楽しませたいという姿勢、ムードメーカーでレクタイム的時間と空間では抜群の存在感を示されました。本当に有難いことでした。

 

 私の東京での会社勤務がすべて終わり、H20年4月に関西に戻ってきて楽楽に入会してからは、宮本さんがレッスンを受けていた岡本一郎先生の話しをいろいろ聞かせていただいたこと、そして息子さんが就職して東京勤務となり、その住居のことで不動産会社出身の私に相談があったことが思い出に残っています。

 

     1年下の私ですが、もう少し頑張ります。見守っていてください。

 

 

宮本さんの思い出

 

 宮本さんは11回生、卒業なさった年に入学してマンドリンクラブに入部しました。後に楽楽でご一緒することになったものの、現役ではOBと現役でした。

定演の後OBがねぎらいに来られたり、現役の50th定演のOBステージの世話役を一緒にしたり、やがて楽楽でもご一緒するようになりました。

 

 入部当時には、宮本、M.Mさんの武勇伝を聞きました。名古屋のTV塔の中間展望台でのマージャン、合宿の帰りの汽車のキセル行為。三宮の改札口で何となく木枠に腰かけて、ついと外側に飛び降りてキセル成功!という具合です。

 

 練習や合宿に車に乗せて頂くようになりました。練習帰りに、奥さんがお稽古で、家に帰っても一人で寂しいのでちょっと寄って行かへんかとS.Oさんと私を酒屋に連れていき、各々の飲み物とつまみを買ってお邪魔しました。

 又、別の時、皆で集まって来やへんか?風邪気味だからと言って車で迎えに来て連れていかれたりしました。私の家に柿の木があり、小さいけど美味しいと毎年貰ってくださいました。

 

 今年の春、宮本さんの家の近くにとても美しい桜公園があり、そこで待ち合わせして、奈良のお土産をお持ちしました。柿の葉寿司と三笠饅頭を美味しいわと食べてくださいました。去年はRokko Meets Artsへドライブして、オルゴール館や高山植物園へも連れて行ってもらいました。よく乗せてもらうので、私の存在を忘れてしまってご自宅に帰りそうになったことも。

 

 六甲での練習の後、必ずコーヒーを飲みにいく9回、11回の会にも一人寄せていただきました。コロナと宮本さんの欠席のせいで長いこと出来ていなくて寂しいです。

 宮本さんはクラブの中のお兄さんのような存在です。でも、彼が夫なら面倒くさいなと思いつつ。

             安らかにお休みください。

 

宮本先輩のこと

            

 今から62年前の春、六甲台の本部前庭で宮本さんから手招きされ、マンドリンクラブに入部。宮本さんは兄の中学時代からの親友で、当時すでに顔見知りでした。

そのお陰で神大マンドリンクラブ、楽楽・神戸と楽しい仲間と一緒に大切な時間を過ごすことが出来たこと感謝です。

 

 宮本さんといえば、何故かフォークダンス。宮本さんのリードでオクラホマミキサーやマイムマイムなど合宿地や校庭でよく踊りました。

 

 もう一つよく覚えているのは、六甲山の家での肝試し。これは宮本さんと同学年のMさん達の企画だったかと。わかっていながら怖かったのを覚えています。と、いつもその場の雰囲気をユーモラスに楽しい方向にもって行こうとされていました。

 

 そんな先輩の突然の悲しい知らせを聞き、「寂しい」「残念」としか言いようがありません。

           天国から、私たちの活動を見守り

       「おい、おい、もうちょっと楽しんで楽しんで!」

          と応援して下さっていることと思います。

 

 

宮本さんのこと

 

 私が宮本さんのことを知ったのは神大マンドリンクラブに入部するより以前のことでした。宮本さんは私の兄の中学校書道部での親しい友人で、しかも現在私が所属している前衛書団体の一員でした。

 10年ほど前のある日、兄を通じて段ボール箱一杯の古い

(60年以上前の)書道の同人誌が送られて来たのです。

「一応虫干ししといたから」とのことでしたが、おそらく60年

以上一度も開かれなかったであろう数十冊を、黴と埃で眼と喉

が痛くなりながら再度ベランダで日光と風に当てたあとコピー

をとりました。そして貴重な資料ですので、しかるべき方々に

お譲りしました。

その時のコピーの中から宮本さんの高校時代の作品が見つかりましたのでここに添付します。読めませんが前衛の詩文書で、勢いのある素敵な作品だと思います。

天上で今頃「そんなん出さんといてよ」と言ってらっしゃるような気もしますが。

 

           

  いつも展覧会に来て下さって一言

         「今年の作品はあんたに合ってないんちゃう?」 とか

  本当のことを言ってくださるのを楽しみにしていましたのに、

                        今年は寂しかったです。

 

          楽楽神戸での思い出も色々ありますが、

  親戚の楽しいお兄さんみたいな存在だった宮本さん、お世話になりました。

            本当にありがとうございました。

 

二人で夢見た宮本ビル

 

 楽楽の”オアシス”タイム の本家は宮本さんが学生時代に始められたアオシスです。

当時はガリ版印刷と言って蝋引きの原紙をやすり版の上に載せ、鉄筆で文字を刻んで作り印刷したものでした。お手伝いをしていた私は、ガリガリと刻んでいた音や匂いを今でも思い出します。楽楽でオアシスを復活した私には、宮本さんのDNAがどこかに入っているような気がします。

 

 今から多分40年位前、宮本さんから「なー〇〇、岡本の土地にビルを建てたいんやけど、何か考えてくれへんか」というお話がありました。当然二つ返事で引き受け、二人であーでもないこーでもないと・・・。そして出来たのが地下1階地上5階建ての宮本ビルでした。1回はテナントで喫茶店などを想定、2階は某計画事務所が入ると勝手に決め、上はテナントか宮本さんの自宅かどちらかにしよう、そして地下(地下といっても敷地に高低差があり、直接入れます)には楽楽の練習場がありました。

 二人ともマー実現はしないだろうなーと思いながら、楽しい夢を見させていただきました。模型写真を見て頂こうと探したのですが見つからず、とても残念です。

 

 建築好きの宮本さんは引っ越し好きでも有名でした。岡本をスタートにいくつ引っ越しされたか正確には知らないのですが、一番記憶にあるのが御影の急な坂(本当に急でした)を上り切り、左に曲がった先にあった瀟洒な木造の住宅です。10mほど下には小川が流れ、イノシシも良く挨拶に来ていましたね。

 

       そしてある日突然、最後の引っ越しをされてしまいました。

                 本当に寂しいです。

     そちらに行ったとき、また引っ越しをしていないなんていやですよ。

          二人で”天国のオアシス”を作りましょうね。

 

宮本さん おやすみなさい

 

 「アイルランドに行ってみたい」と何度もおっしゃるので、私達が2016年にアイルランドを訪れた時の写真を持って先月お宅に伺った時、アイルランド民謡の話題も出ましたね。以前に「春の日の花と輝く」のことを語っておられたことも思い出して、翌日だったかにインターネットで仕入れたアイルランド民謡の情報を数枚のプリントにしてお届けしました。

 ユーチューブの検索欄にタイトルを入れたらすぐに聴けますよ、と伝言したのですが、お聴きになりましたか?

   無精して聴いてはらへんかと思い、もう一度情報を1曲だけお届けします。

 

       https://www.youtube.com/watch?v=uMWSMGidJ7g

 

           これは「アイルランドの子守歌」です。

                歌詞の大意は

       『ずっと昔 キラーニーで 母さんが僕に歌ってくれた

   優しく穏やかな声で 素朴な短い歌だった 古き良きアイルランドの歌い方で

     もう一度あの母の歌を聞けるなら どんなことでもしてみせる』

 

 上記のアドレス1行を全部選択して、右クリック → コピー としておいて、

インターネットを立ち上げ、検索欄にカーソルをあてて、右クリック → ペースト

としてリターンを押してください。現れた画面中央の右向きの白い三角をクリック

すれば、スタートします。(それぐらい知っとるわい、と言われそうですが・・・)

    あっ それから、スピーカーの電源をオンすることもお忘れなく!

  できればお母さんを抱きしめて、一緒に聴いてみてください。いい曲ですよ。

 

  宮本さん、60年余の長い間、半分冗談混じりの暖かいお付き合いをいただき

             本当に有り難うございました。

               おやすみなさい。

 

     『君あしたに去ぬ ゆふべのこゝろ千々に何ぞ はるかなる』

 

更新日:2023/10/19