セロ・パート M.Kさんのレポート
前日の大雨警報が嘘のような爽やかな天気だった。
気温も低めで湿度も低く、例年より早い梅雨はどこに行った?という感じ。
添付の写真は、我が家のそばを流れる金岡川の2日の警報下の状況です。
水嵩の高い(DSC_852)のが、午後1時ごろ、
低い(DSC_854)のが、午後4時ごろです。
会場:御影公会堂3F 時間:午後1時~4時30分
<指揮:S.Imさん>
・当日の練習は、「サウンドオブミュージック」中心。
映画のストーリー、平和への願い、家族の絆を扱った映画との説明があった。
殆どの方が、この映画は見ていると思います。
A マンドリン 1st、2nd、二部に分かれている。
セロも上下に分かれているが、全員上を弾くように。
まず、通してA→B 8小節、9小節は切る。18小節rit→19小節、a tempoで
メロディーが始まる。
C Mariaの説明・・家庭教師として訪れる。
マンドリンは、ピックとトレモロの違いをはっきり付けること。
マンドリン系だけ、何度か練習をしたあと全員で。
D 全部ピッキング。(タイのところもですか? はい)
Eの前の「フェルマータ」に注意すること。 E 全員で→1stだけ→全員で
F 1stがかなり難しそう。ゆっくり練習。
G 飛ばして H→I, J→K セロの深く美しいメロディー。 M →最後まで
少し休憩して、最初から通した。
・瑠璃色の地球
全体を通して静かに演奏する。
イントロのギターパートは引きずらないように、歯切れよく。
マンドリン、ドラはタイの掛かった音符の長さに注意。
63小節~歌いたいところなので、しっかりと弾く。最後は、軽く、可愛く、、
<お知らせ>
・コンサート実行委員K.N氏からの報告
過去のコンサートのデータを見ている段階。
・会員の近況
Y.N氏 6月、7月休会
Y.Y氏 体調不良のため自宅療養中
・H.Kさんから
カナダのお土産(メープルシロップのクッキー!!)
赤毛のアンに会いに、プリンスエドワード島へ行ったんだって。イイネ!
・T.T氏から
自宅のびわのお土産(小粒だが、大変甘かった!!無農薬!!)
・S.Oさんのリフレッシュ体操
平日は極力ラジオ体操をしているけど、動かしていないところがあるのよね。
<指揮:S.Ikさん>
・レナータ
全体を通して強弱に注意。
マンドリン、3小節~、9小節~の2拍目と4拍目はピック。
11小節・・マンドリンの16分音符は、ゆっくり目なので慌てない。
18小節・・最後のクレッシェンドはしっかり!!
・山の印象
4楽章 鈴が入る。
375小節からaccel、鈴に合わせてだんだん速くしてリズムに乗る。
指揮者から、「雰囲気は出ています。」
・神様のカルテ
シンバルが入る。最初からDまで、部分練習をした後全体を通した。
・栄冠は君に輝く
演奏の前に、指揮者が「野球の原点は高校野球です」と言われた。
シンバルが入る。久しぶりの曲で、まず、一回通した。
3連符が多いので、注意。Iからゆっくり、そのまま最後まで。
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練習風景担当より
記録を取ってくれた、マンドリンのKさんに感謝感謝です。
ここだけの話ですが、小生、最近聴力が下がって、人の話が聞き取りにくいので
補聴器を検討中です。(ここだけの話”にしなくてもOKです)
ちょっとは、ベートーベンに近づいたかな?
20代で難聴になった彼と、70を越してから難聴になった者の違いはあるが。
神様のカルテの作曲者 辻井伸行にしてもスゴイ!!ネ。
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楽楽の”おあしす”タイム
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12回生ギター・パートのT.Mさんからの投稿です
江文也という作曲家がいた
オリンピックにはかつて「芸術競技」部門(絵画・彫刻・音楽)があって、1912年のストックホルムから1948年のロンドン大会まで2部制で行われていたことは意外と知られていない。もっとも、日本が参加したのは1932年のロサンゼルスと1936年のベルリンの2大会だけであり、私が関心を持つ「音楽」部門にいたってはベルリンが最初にして最後の参加となった。
このベルリン大会の「芸術競技―音楽部門」に参加し、管弦楽曲「台湾舞曲」により銅メダルに次ぐ「選外佳作」という成績を残したのが江文也という台湾出身の声楽家・作曲家であった。当時台湾は日本の統治下にあったので、あくまで“日本人“として参加したのだが、山田耕筰、諸井三郎、箕作秋吉らの作品をおさえての快挙だった。彼は作曲を山田耕筰と橋本国彦に学び、1934年から37年まで音楽コンクール(現在も毎日新聞社とNHKの共催により続いている)の作曲部門で4年連続入賞しており、戦時期における江の活躍はまったく目覚ましいものがあった。
江は1938年には、台湾出身の中国人芸術家として日中の架け橋たることを期待され、日本占領下の北京で師範大学の教授に就任し、以後の彼は日本と中国を行き来して暮らしていたが、1945年8月の日本の敗戦とともに日本国籍を失い、乃ぶ夫人(1933年結婚)と娘さんを残したまま二度と日本の土を踏むことはなかった。中華人民共和国成立後は天津の音楽院の教授に就任したりしていたが、その後の57年からの「反右翼闘争」、66年からの「文化大革命」に巻き込まれ、「日本寄りのブルジョワ分子」として糾弾され、楽譜も大半が失われた。1978年に名誉回復がなされたが、江文也は中華人民共和国の作曲家ジャン・ウエンイエとして1983年に亡くなっている。
江文也の名は45年の敗戦を境に日本の音楽界から消えてしまった。彼の本格的再評価が始まったのはその死後のことといってよく、その機運はまず台湾や香港で高まり、中国本土に飛び火した。日本でも90年代以降少しずつ作品が演奏されるようになってきているそうである。
私が江文也のことを知ったのは一本の映画「珈琲時光」(2004年)であった。
江文也を取り上げたこの映画は台湾の名匠・侯孝賢が日本の俳優を使って日本で撮り、歌手の一青窈も出ており、夫人の乃ぶさんと娘さんが特別出演していた。彼のピアノ曲がバックに使われていた。これがきっかけで5年前の1999年に出版された江の伝記「幻の五線譜―江文也という日本人(井田敏/白水社)」までたどり着いた。
知ることは喜びでもある。オリンピックのベルリン大会(1936年)で日本がただ一度参加した「芸術競技(音楽部門」において、台湾出身の中国人が“日本人“として唯一こういう栄誉に輝いたことを私たちはしっかりと記憶にとどめておきたいと思う。
私が経験した鳥肌の立つ後日談を最後に紹介します。
「幻の五線譜」を読んだのは2004年中だったと記憶するが、某日この本を読みながら東急目黒線の各駅停車に乗っていて、ちょうど著者が江夫人の乃ぶさんを訪問する辺に差しかかっていたのだが、電車が停まってふとホームの駅名を振り仰いだところ、なんとそれは乃ぶさんが住んでいる「大倉山」であった!こんな偶然があるものだろうかとザワっと鳥肌が立った。
(参考文献・資料)
1.「幻の五線譜―江文也という日本人」(井田敏/白水社)
2.CD「江文也ピアノ作品集―1930年代」のライナーノーツ(片山杜秀)
更新日:2023/06/08
Category: 練習風景