2022年3月10日 臨時練習風景


             

                                     楽楽のおあしすタイム

            故・柏木良雄さんを偲んで

          楽楽・神戸初代の代表であり、指揮者・コンマスであった柏木良雄さんが

              2月10日にお亡くなりになりました。

    2020年8月に癌が見つかり、医者からは余命幾許もないとの診断でしたが

      ご家族の献身的な介護やご本人の不屈の精神で頑張ってこられました。

              皆様と共にご冥福をお祈りいたします。

 

                          多くの皆様から追悼の言葉や思い出など戴きました。

                                     投稿いただいた順で掲載しています。

            お名前は省略いたしました。ご了解ください。

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・思い出

 

 この写真は28年前の1994年10月9日(日)に

ハーバーランドでのパストラーレ・マンドリン

コンサートを聴いてから弦友会夕食パーティに

集まった時の一枚です。

 建築のスペシャリストとして活躍されていた

柏木さんを囲んで楽しいひと時を過ごしました。この3ヶ月後1995年1月16日に阪神淡路大震災が神戸を襲いました。

 その年末に私たちはマンドリンやギターを携えて三々五々東灘のHN・AN夫妻の事務所に集まり、久しぶりのアンサンブルを楽しみつつ、それぞれ失った生活を取り戻すことを始めました。この集まりが今日のマンドリンアンサンブル<楽楽・神戸>に成長し、柏木さんはその初代代表及び指揮者・コンサートマスターとして私たち会員を支えてくれました。

   

          現在2年に及ぶコロナ禍で私たちの活動が停滞を余儀なくされていて

   再び柏木さんの力が必要な時に彼は逝かれました。誠に残念なことです。

      家族会員だった奥様S.Kさんに心からお悔やみを申し上げます。

 

 

・春近き空の彼方へ

 27年前に神戸を襲ったあの大震災の数日後、まだ時折余震のある三宮の居留地の

ビルも大打撃を受けていつ崩れるかもわからない。そんな一角の薄暗い建物の中で

黙々と片づけと点検作業を続ける一人の男・・よく見るとあの柏木良雄さんではないか。彼が勤務していたゼネコンが建設したビルが気がかりで見回っているとのこと。その責任感と熱意にあらためて感動した。

 

 思えば良雄さんが入学後直ちに神戸大学マンドリンクラブ(KUMC)に入部してくれたのは1960年の春、立ち消え状態だったKUMCを復活することができて間もなくのときだった。11回、12回生と幸いにも素晴らしい後輩の方々の参加で部は上昇気流に乗っていたが、良雄さんのマンドリン音楽への情熱はずば抜けていた。

この年の5月には復活後初めての学外演奏会〈Early Summer Concert〉で自信を得た私たちは、年末には定期演奏会の復活を!との目標を持って信州合宿を張った。

 

 その合宿中に定演の企画について野心派と慎重派に分かれて激論となったが、結局神戸国際会館での有料公演に決まった。その際積極的に野心派に加勢してくれた下級生の筆頭が良雄さんであった。とはいえ復活後僅か一年での私たちのこの計画は、無謀猛進との周りの声の中で定演当日まで4か月間の練習はほんとうにすごかった。

陣頭指揮を執ったわれわれ9回生もさすがにくじけそうになることもあったが、良雄さんたち後輩のひたむきな姿には度々救われた。そして秋の摩耶山での強化合宿では、朝から10時間を超える猛練習を終えて消灯後も布団の上で独り黙々と運指練習を続ける良雄さんの姿に、私は定演成功の決意を新たにした。復活後初めての年末の定演には、彼は一年生ながら2ndマンドリンの一員として出演、大盛会であった。

その翌年の定演では彼は1stマンドリンパートで更にその翌年にはコンサートマスターとして100名余りのメンバーを率いている。

 

 私は卒業後総合商社に勤め、KUMCとも遠くなってしまったが、良雄さんが4回生のときに日本学生マンドリン連盟主催のアメリカ演奏旅行の選抜メンバーに選ばれたことを駐在地のヨーロッパで聞いた。彼の一生の思い出になったことだと思う。またこの頃に大阪で結成されて活発な演奏活動を行った商社マンドリン連盟にも良雄さんが助っ人に呼ばれ、そのご縁で素敵な祥子さんと結ばれたことも外地で聞いて心から祝福したのも快挙だった。

          互いに仕事人間時代は、あまり会う機会もなかったが・・・

 

 本文の冒頭に戻ってあの大震災後、私たちKUMCのOB,OGの有志とそのご家族で久しぶりの合奏を始めて楽楽・神戸と名付け、そのメンバーとして良雄さんともまた何度か例会や合宿や舞台を共にすることができた。

 ところで彼と語り合ったささやかな二つの夢が未だ実現できていないことを申し訳なく思う。一つはKUMCや弦友会を中心として大阪城ホールで大コンサートを開くこと、もう一つは家族や友人たちにも広く呼びかけてチャーター機を手配しマンドリンとギターの故郷であるイタリーとスペイン旅行をして、現地でコンサートを開くことである。

 いつも率直で表裏無く、剛直で自分に厳しくそしてどこか優しい、引き受けたことは必ずやってくれる頼もしさを持った彼、今の世にはもう少なくなってしまったかもしれない男の美学、そんな彼の他界は「巨星堕つ」というよりは巨星が遠い宇宙の彼方に飛び去ったような寂しさを感じる。けれども何処かからいつも温かくそしてときには厳しくご家族を、そして残された我々KUMCや弦友会そして楽楽・神戸の仲間を見守ってくれると信じ、心からご冥福をお祈りしたい。

 

 

・柏木良雄さんの思い出

 

 2月10日 柏木さんがお亡くなりになりました。深く哀悼の意を捧げます。

2年にわたる癌との闘病生活を送りながらも、常に前向きな姿勢で日々を送られていました。正に柏木さんモットーである「生涯現役」を貫かれた生涯でした。

昨年11月24日に携帯に電話したところ、お元気な声で、これまでの生活ぶりと余り変わらないほどいろいろ活動されているご様子でした。その時は、もう少しゆっくりして過ごされた方がよいのでは思いもありましたが、ご自身の生き方を貫く姿勢を崩さない強い気持ちで過ごされているのを感じました。

 

 振り返れば、私が2003年4月に楽楽・神戸に参加させて頂いてから19年近くマンドリン合奏を一緒に楽しんできました。柏木さんのマンドリンに対する情熱、マンドリン愛は大変なもので、私の入会当初は指揮、コンマス、代表の3役を務められ、演奏の

まとめ役だけでなく、メンバーのリーダーとして積極的活動されていました。

 また春秋の合宿では朝早くからマンドリンの練習をされ、夕刻のオアシスタイムでは、ソロで難曲を弾かれるのが常でした。合奏の時は、コンマスとして大きな背中を丸めて、小さなマンドリンを慈しむように抱え懸命に演奏されていました。

 

 2009年からは楽楽・神戸だけでなく、箕面マンドリンクラブにも指揮者として参加され、後には、コンマスとしても活躍されました。2サークルに参加され日程的にも厳しい中、体力的にも大変だったと察しますが、いつもお元気に活躍されていました。

その柏木さんが病に侵され、マンドリンを弾けなくなった時は本当に無念で寂しく感じられたことでしょう。今年の1月17日に箕面市民病院にお見舞いに行きましたが、コロナ禍のため面会できず、奥様に病室に電話して頂き、短い時間でしたが少しお話できたのが最後でした。改めて、柏木さんのご冥福をお祈りします。

 

 

・柏木さん

 

 まだまだこの知らせが信じられません。あんなにお元気そうで、例会にもできるだけ参加されていたので。柏木さんは本当にマンドリン愛にあふれていた方でした。

合宿でいつもマンドリンを弾いていらしたひたむきな姿 これからも忘れられません。

             ありがとうございました。

 

 

・柏木さんの訃報をお聞きしても・・・

 

 柏木さんの訃報をお聞きしても、私はなかなか信じられませんでした。癌の治療をされながらも、お仕事をバリバリ続けられていたようですし、合奏を休まれている時も、奥様の”暖かくなったら参加します“・・・という言葉を何の疑いもなく信じていました。最近やっと、やはりもう、お目にかかれないのだ・・・と思うと、学生時代ご一緒させていただいた事、楽楽では、初めから大変お世話になったこと等、様々な事が思い出され、感謝の気持ちで一杯になります。

 

 楽楽には、Hさんの紹介でのぞきに(?)行きましたが、その日の帰り、JRの電車の中で、“ひやかしはあかんで!”と一言。次回、楽器を持っていくと、“これ修理に出して下さい。ネックが口あいてます”と一言。

            (35年余り全く触っていませんでしたから・・・) 

 しあわせの村での合宿では、いつも奥様の運転の車に乗せて頂きましたが、道中でのご夫妻のポンポン弾む会話が、懐かしく思い出されます。これからは、本当に寂しくなりますが、これからも奥様は楽楽でご一緒に合奏して下さいね。

 

 

・“柏木さんを偲んで”

 

 ほぼ1ヶ月前に元気な姿でお会いし和やかにお話ししたのに、こんなに早くお別れすることになるとは。自分の中でなかなか受け入れられず困っています。今日にもフィナーレ譜のやり取りでメールが来そうな気がします。

 大学に入学し、マンドリンクラブで柏木さんと出会ってからかれこれ60年、途中ほぼ途切れることなくお付き合いさせていただきました。マンドリンクラブ、マンドリンアンサンブル“エチルド”、そして<楽楽・神戸>さらにみのうマンドリンクラブも少し。

 どの時にも柏木さんの印象は「練習の虫」です。寸暇を惜しんでマンドリンと向き合っておられました。合宿の朝はきまって柏木さんの朝練、マンドリンの音で目覚めました。天性の才とその努力で、実力では誰も叶わないほど上達され、私にとっては「雲の上の人」になってしまいました。現役時代からコンマスとして、さらには後に指揮者としても活躍されたのは当然のことと思われます。

 

 今後は先輩として高齢者団体を引っ張ってくださることを期待していましたのに、

        本当に残念でなりません。ご冥福をお祈りします。

 

                                                           

               (写真は宮本邸での月下美人鑑賞会 2006.7.28

 

・柏木先輩の思い出

 

 「マンドリンをこよなく愛した情熱の人」これが先輩に対する印象です。学生時代にはT先輩と演奏された「荒城の月を主題とせる二つのマンドリンの為の変奏曲」に感動し聞き入ったことを思い出します。<楽楽>では指揮者として、コンマスとしていつも熱血ご指導をいただきました。合宿のオアシスタイムでは毎回出演し熱演され参加者を楽しませていただきました。いつも前向きで私たちを引っ張っていただき本当にありがとうございました。柏木先輩、どうぞ安らかにおやすみください。

 

 

・柏木さんのご逝去を悼み心よりお悔やみ申し上げます。

 

 柏木さんの素敵なマンドリンの音色、合奏の時のソロや合宿のオアシスタイムでの演奏などにいつも魅了されていました。柏木さんのお名前は大学1年でマンドリンクラブに入った時から伝説のマンドリニストとして轟いていました。とても上手で熱心、合宿の消灯時間になるとお布団の中で弾いておられたとのこと。

 

 そんな雲の上のような方と楽楽に入ってご一緒でき光栄でした。奥様ととても仲が良く合宿に行く車の中でのお二人のやりとりは宮川大助、花子さんの漫才のようで、よくお腹をかかえて笑ったものです。主人の方が大助さんよりハンサムとみんなに言われると奥様が話しておられました。そんな可愛い奥様のことが気がかりでらしたでしょうが、これからも私達楽楽のメンバーみんなで今まで通り仲良く楽しくご一緒していくのでご安心ください。

   今はただ静かに柏木様を偲び、ご冥福を心からお祈りしたいと存じます。

            色々ありがとうございました。

 

 

・柏木良雄君を偲んで

 

 柏木君は私の1年後輩として神大マンドリンクラブに入部してきましたが、何かスポーツでもしているようないい体格で、こんな奴に辛気臭いマンドリンを続けられるのかという印象でしたが、案に相違して大変熱心で、めきめき腕前を上げ、あっという間にリーダー格になってしまいました。その後は、ずっとマンドリン道に邁進し、いろんな活躍をされたことは、皆さんご承知の通りです。ただ、死人には申し訳ないですが、マンドリンの腕は一流ですが、幅広い音楽知識に乏しい点があり、2.3指摘したこともあります。

 

 しかしいずれにせよなかなか愛すべき人物でした。人間的には長男タイプ(本当に長男かどうかわかりませんが)で、マイペース、あまり回りに気配りはしないタイプだったと思いますが、会社では定年後も勤めるなど、好かれていたのではないかと思います。うらやましいのは、奥さんによると、最後まで意識ははっきりしていて家族にあまり面倒はかけなかったようですね。私も最後はそうでありたいと思います。

 

 またあの世で、合奏をしたいと思います。それまで、ゆっくり休んでいて下さい。

 

 

・学生時代は

 

 学生時代は柏木さんのことを全く知らず、お名前とお顔を知ったのは、多分三田の研修所での合奏の頃からであったかと思います。伝説の方だという話を聞いて、私には縁のない方だとずっと思っていました。でもある時、柏木さんから電話をいただき、1Mに替わるようにと言われてしり込みする私をいろいろ励ましてくださって、私もなんとか決心することができたということがありました。それ以来、私の心の中では柏木さんとの距離がほんの少し縮まったかなと思えるようになりました。また祥子さんに誘われて行ったハイキングにも同行されていて、楽楽よりリラックスされている姿に気楽に話ができたように思いました。

 

         生涯青春をモットーに、多方面に活躍され

         何よりマンドリンを愛されていた柏木さんに

         心からの敬意とご冥福をお祈り申し上げます。

 

     

・柏木さん

 

長いようで一瞬の60年間、有り難うございました。

       君あしたに去ぬ ゆふべのこころ 千々に何ぞはるかなる

 

 

・柏木良雄さんの訃報に接し

 

 あまりにも早いお別れに悲しみを深くしております。入会当時、楽楽の代表、指揮者、コンマスの三役を兼務し、楽楽をリードして下さっていた柏木さんは、私にとって、眩しく大きな存在でした。お忙しいお仕事の合間を縫って、学生時代の楽器の調整にお店まで同行して下さったり、例会で顔を合わす度に、まだ楽楽に馴染めていないのではと気遣って下さったのか、いつも柏木さんの方から、「元気?」って声を掛けて下さるお優しい方でした。柏木さんには、入会当初より本当にお世話になり感謝の気持ちでいっぱいです。目を閉じれば、指揮棒を振っておられるお姿、オアシスタイムでの演奏、取り分け祥子さんとの微笑ましい二重奏など、いろいろなシーンでの柏木さんの思い出が脳裏を巡ります。

 

 柏木さんのパートにいた時には、「ハイポジの運指を参考までに」と、何度かメールを頂いたこともあります。メールの送信時間を見ると、いつも深夜であったり、明け方であったり、柏木さんはいつお休みになっているのかしらと心配になるくらい、いつでもマンドリンの事を考えておられたのかもしれません。

 学生時代の合宿の時でも、柏木さんは、消灯後に廊下の明かりの下で音を出さずに左手で運指の練習をされていたんだよというお話を伺ったことがあります。

柏木さんのマンドリンに対する飽くなき情熱や生涯現役といった前向きなご姿勢は、見上げるばかりで本当にご立派でした。

 

添付の写真は、2019年秋合宿の生オケで、柏木さんが

『地上の星』を歌って下さった時のものです。

途中から祥子さんがマイクを持って寄り添われ、お二人の

仲睦まじいご様子に心も和みました。

この頃に時間を巻き戻せるものならという思いに駆られますが、もはや叶わぬことです。

         柏木さん、本当に有難うございました。

 未だにお亡くなりになったという実感が湧きませんが、

 柏木さんの在りし日のお姿を偲びつつ

         心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 ・<楽楽>に入会した当初から

 

 <楽楽>に入会した当時から柏木さんには大変お世話になりました。面倒見が良くて

私は何度も助けて頂いた事があります。本当に頼りになるとても大きな存在でした。合宿でのオアシスタイムでは、毎回難しい曲に取り組まれてご披露して下さって充実した楽しい時間を与えて下さいました。又、奥様とのデュエットは、時にユーモアを交えての仲睦まじい演奏で羨ましく聴かせて頂きました。

 マンドリンを弾かれる真剣なお顔の柏木さん、例会に向かう電車にニコニコしながら奥様と乗って来られた柏木さん、、、一コマ一コマ、懐かしく思い出されます。

もうお会いできないという事が未だに信じられません。本当に寂しくなりました。

 柏木さんへの心からの感謝の気持ちを添えて、ご冥福をお祈りいたします。

 

 

・柏木さんが亡くなられたこと

 

 柏木さんが亡くなられたこと、とても残念です。以前、祥子さんから娘さんたちが本などで調べて、食事の内容もできるだけ農薬などを控えた食材を使っていると聞きました。療養しながら仕事もしていると聞いていたので、きっとマンドリンに戻ってこられて、また演奏が聴けるものと思っていました。

 柏木さんの思い出といえば、合宿のオアシスタイムで難しい曲に挑戦して演奏されていた姿や休憩時間でも練習されていた姿を思い出します。写真を探してみると、昭和37年夏の合宿、霧ヶ峰高原の写真が見つかったので、添付してみます。

 

   15回生のT.OさんやK.Sさんと出会って、天国で演奏できればいいですね。

               ご冥福をお祈りします。

 

 

・柏木良雄さん安らかに

 

 柏木良雄さんにお会いしたのはいつのことでしたでしょう。私も<楽楽>の2004年の初回コンサートに出演していますので、その少し前であったことは間違いありません。しかし、真に柏木さんを知ったのは、2015年のKUMC創部100周年の記念誌を編纂した時でした。

 柏木さんに「一生の思い出、アメリカ演奏旅行」を寄稿依頼、たくさんの資料と共にマンドリン音楽・演奏への熱い想いを語ってくださいました。記念誌33~34ページ、紙面の関係でわずか2ページにさせていただきましたが、読み返すと全日本マンドリン連盟主催のアメリカ演奏旅行に応募・当選し、「柏木さんとマンドリン」が一つになって、その後の人生を歩まれたことが分かります。さらに、同57ページの12回生紹介記事(Y.Tさん寄稿)から同期のみなさんはもちろんのこと当時の先輩後輩部員が柏木さん渡米を応援し、KUMCの名誉として称えたことが伝えられています。

 

 人との出会いにおいてもマンドリンを通じてクラブの内外に広く深い関係をつくって行かれたことでしょう。

        “にこにこ”と満足人生で逝かれたことと思います。

                  柏木さん、お世話になりました。ありがとうございました。

              どうぞそちらでも多くのお仲間とマンドリンをお楽しみください。

 

 

・コロナ禍の中

 

 コロナ禍の中、何のお話もしないまま柏木さんが旅立たれ、とても残念です。むつかしい曲(パストラルファンタジー)を選ばれて付いて行けなかったこと、また、マンドリンの演奏にはいつも真摯に向き合っておられ、昔は指導もしてもらいました。

 

 Tさんと「荒城の月」を主題とせる二つのマンドリンの為の変奏曲を弾かれた時の素晴らしさと私もその演奏に参加させてもらえた感動は今も心に残っています。一方で、合宿なんかではにこにこと人なつっこく話しかけていただいたなあと、思い出しています。

               柏木さんのご冥福と

    柏木さんのお母さまのようだった祥子さんのご健康を祈っております。

 

 

・もう、ずーっと昔

 

 もう、ずーっと昔、大学に入学した4月か5月だったでしょうか・・・・当時、教養課程の1年半ほどは姫路にも分校があり、私はそこに通うことになりました。

 

 クラブ勧誘のイベントの日だったと思いますが、今まで聴いたことがないような美しい、繊細な音色に惹かれて、入部を決めたのを覚えています。その時、「学部は?」「出身高校は?」「住まいは?」と矢継ぎ早に質問してきた人、それが柏木さんでした。真面目で、ストレートにいつでもものを言われる方でした。

 1年先輩にあたる柏木さんには、その後も技術面のご指導を受けたのは申すまでもありません。演奏は私などとても及ばぬ技量で、柏木さんの1年先輩の当時Sさんとのデュエットで「荒城の月を主題とせる二つのマンドリンの為の変奏曲」をコンサートで弾かれたのは、今でも忘れられません。

 楽楽・神戸に私が入会させて頂いたときも、マンドリンに対する情熱は昔と一つも変わっておられないと感じました。弾き方を訊くと、いつもストレートに教えてくださいました。

     亡くなられたと聞いても、お元気なときのお顔しか浮かんできません。

              本当にお世話になりました。

        病気がわかってからも、精一杯頑張られたことでしょう。

        どうぞ安らかにお眠りください。有り難うございました。

 

 

・「柏木君のこと」

 

 この楽楽・神戸はその名の通り楽で楽しい?家族の寄り合い所帯!ということできちっとした彼の会則は不要となりましたが、何かにつけてのまとめごとなど素晴らしい貢献をしてくださいました。感謝感謝感謝です!

     くだけた所では、ある音楽の先生が彼の指揮ぶりをご覧になって

  分かりやすいロボット式だねえ と褒めているのかさっぱりわからないことも!

 

 

柏木良雄さんは私にとっては

 

 柏木さんは私にとっては「マンドリンの鬼」の印象と、ちょっと自嘲気味の笑顔が可愛らしい、親切で気の良いおっちゃんの印象がどちらも心に残っています。

    合宿でも、いつも時間を惜しんで弾いていらっしゃいましたね。

「生涯現役」を掲げられて本当にその通りの人生だったこと、凄いとしか言いようがありません。きっと今頃あちらの世界でもマンドリンを弾いておられて、私たちが遅れてやってくるのを、合奏の席を用意して待っていてくださるんじゃないかと思っています。

 楽楽・神戸で柏木さんに会えなくなるなんて本当に寂しいことですが

                       心からご冥福をお祈りします。

 

・エピソード

 

 柏木さん4年の時のちょっとかわいいエピソードです。私は1年でしたから、先輩から聞いた話だと思います。彼は全国からマンドリンオーケストラの一員に選ばれアメリカへ演奏旅行に行くことになりました。そこで分からないことを人に尋ねました。一つはネクタイの結び方、もう一つはたばこの持ち方。人差し指と中指でどっち向けに持てばいいか、その後タバコは吸っておられないと思いますが、ちょっと笑えるでしょう?

 

 もう一つのエピソードは私が卒業してからのことです。私は阪大の事務室につとめており、柏木さんは阪大のすぐ側に、今もそうですがお住まいでした。柏木さんの子供さんが高校の頃で学生の家庭教師を必要とされていました。近くだから学生部へ申し込みに行って欲しいと思われ、私が申込みに行くことになりました。その後次の子供さんの時も電話がかかってきました。そこは先輩という事でお手伝いはしました。

 

 

・柏木さん

 

 1回生の時、演奏会で柏木さんとSさんの ”二つのマンドリンの為の荒城の月”を聴きマンドリンの美しさに感動したのを覚えています。この時だったか、別の時だったか 柏木さんが最初のところを弾き始め間違われたのか、また最初から何もなかったように弾き始められたのが印象に残っています。こんな風に出来るんだと。(変なこと覚えています。ゴメンなさい。)

 とにかくマンドリン一筋。学生時代も”楽楽”でまた合奏できるようになってからも、いつも皆を引っ張って行って下さいました。時々力が入り過ぎて、脱線しそうになった時の奥さまS子さんの手綱さばきも懐かしく思われます。もうあんな会話も聴けないんですね。寂しい限りです。

       柏木先輩、”楽楽”の皆の演奏を天国で聴いていてください。

 

 

・思い出は胸にしまって

 

 柏木さんに初めて会ったのは多分1961年4月〇〇日、

    最後に会ったのは2022年1月8日、Nさん夫妻とお見舞いに行った時でした。

退院三日後というのに駅まで歩いて迎えに来るというハプニングに始まり、Finaleに入力中の曲(その曲が”勝手にしやがれ”とは。他に相応しい曲があるでしょう!それともこれまでの自責の念?)の説明やあれやこれや、全く病人らしくない振る舞いに驚かされ、最後に記念写真まで撮ってお別れをしました。

 

 

  後で聞くと、あくる日MMCの例会に参加し、マンドリンを弾いていたとか。

           全く無茶苦茶じゃーあーりませんか。

 でも、先輩にこんな失礼なことを言えるのもできなくなりました。寂しいです。

 

癌とわかってからの一年半、きっと辛い、苦しい日々を送られていたのではないかと察します。思い出は沢山ありすぎますが、胸にしまってお別れします。

                            さよーなら。

 

    

 

 

 

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          最後に、祥子さんから届いた一文を紹介します。

 

この1年半は仕事人間の主人を持つ身として、ずっと一緒にいた、とても楽しい時間でした。行くところは病院でしたけど、採血があるので朝、お昼のお弁当を持っての病院通いでした。もう一度そんな時間が持ちたいです。元気にならなければね。

 

 

更新日:2022/03/09