マンドリン・パート A.Nさんのレポート
大型台風14号接近中 まだこちらには影響なさそうということで
36名のメンバーが集まりました。
場所は音響効果抜群の芦屋市民センター「音楽室」
ここで弾くとなんだか実力以上に上手に聴こえて嬉しくなります。
調弦の後
13:05~14:30 はS.Ik氏指揮
S.Ik氏が指揮を担当されて1年近くになります。ご本人も私たちも大分慣れてきた
ようです。
○丘を越えて
ご自身の編曲で軽快なポップス、調子よく合奏できました。
○古戦場の秋
荒涼たる秋の古戦場から始まり昔を思い出す戦い
の場面、そして荒れ果てた戦場を眺める空しい
喪失感。この曲も、もしかしたら反戦歌といえる
のかもしれません。何度弾いても、心にしみる
良い曲だと思います。
○歌謡スーパーエキスプレス<三都物語~学生時代>
今回初登場の曲。「女ひとり」を除いてそれぞれバラバラには弾いたことがあり
ますが、このような曲の繋がり方は初めての経験で、いささか戸惑いました。
まさしく「スーパーエキスプレス(超特急)」で、1曲の曲想に浸る余裕もなく
次の曲へと移ります。常に気を配り、ボーとしないで対応してくださいという
ことでしょうか、鈍った脳に刺激を与えてくれました。
14:30~15:00 お知らせと休憩
・運営委員・選曲委員合同会議の報告及び自主公演の記録、添付ファイルになって
いるので、よく読んで確認しておくこと。
・11月5日 部内演奏会について 出演希望がまだないので、奮って応募してくだ
さい。
また、グループ演奏はそれぞれ曲目も決まり、楽譜も配布されました。来月から
練習です。
・練習風景担当順の確認
今後<楽楽・神戸>HPアドレスを一緒に載せるので、クリックしてなるべく
多くの方に読んでもらうように。
・誕生月の方の1分間スピーチ
8月生まれS.Nさん、9日重陽の節句生まれのS.Mさん、17日今日が誕生日の
E.Yさん、戦前、台湾、高雄生まれのM.Tさん 以上4名の方がマンドリンクラブ
入部のいきさつや近況などを話されました。
・最後に「大西、竹間 Duo Concert」の宣伝をH.Nさんから。
15:00~16:25 はS.Im氏指揮
○ひまわり
上がらせます。二人の主人公が駅構内で
再会するところ。特にソフィア・ローレン
のなんともいえない表情。どうしようも
ない状況に、何度見ても(といっても3回
ほどですが)涙がウルウル。
残念ながらこの曲は今日で終わりという
ことです。
写真の女性はソフィア・ローレンではありません、城崎の田中さん撮影
○君をのせて
この曲も今日で終わりということで、2回ほど通して終わりました。
○弦楽セレナーデ(ドボルザーク)
はじめの頃は弾くのが難しく、譜面を必死で読みながら弾くことで精一杯でした
が、だんだん慣れてきた最近では少し余裕が出来、曲に浸ることも出来るように
なりました。
43小節からの低音のメロディ、ゆったりとしてとても良い調べです。
他パートの音も聴きつつ、こちらもうまく弾けるようになるには、もう少し時間
がかかりそうです。
○パリは燃えているか
この曲はこの度の侵略戦争が終わるまで続けるそうです。
1日でも早く、その日が来ますように。
この頃の例会は、二人の指揮者それぞれの特徴がよく現れ
それぞれに楽しませてくれています。
S.Im氏はクラシック名曲のうち、できるだけやさしくて綺麗な曲
《次回からはショスタコーヴィチ(名前を聞くだけでもビビりますが)のワルツ第2番》
そしてS.Ik氏は親しみやすい日本歌謡曲を
得意とするアレンジで取り上げてくれています。感謝!!
今日の例会も達成感、
満足感いっぱいで、少し心地よい疲労感を覚えながら帰路につきました。
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楽楽の ”おあしす” タイム
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商社にお勤めで海外勤務の長かった11回生M.Nさんの投稿です
”海外よもやま話 その1”
私はM物産営業部員として 1970-75年オーストラリアのメルボルン、1980-85年
ベルギーのブラッセルに駐在しました。メルボルンへ初めての出国、当時はまだ直行便はなく、伊丹⇒マニラ⇒ウエーキ島⇒ポートモレスビー⇒シドニー⇒メルボルンと飛び石伝いで、1970年12月真夏のメルボルンに着任しました。
メルボルン繊維部、日本人部長と現地スタッフ男女独りづつの小所帯に放り込まれました。日本からの繊維原料や生地の輸入販売が中心です。
第二次大戦で敗戦後25年、オーストラリアは敵国で、日本との戦いで戦死したり負傷したり捕虜となって抑留された人々や家族の記憶がまだ色濃く残る時代で、パブに独りで行くのは危険だと社内でも注意されていました。
さて、着任日、早速客先から電話が架かって来ました。私の机には専用の受話器があります。相手は私の前任者と同じような感覚でしゃべって来ます。ひ・と・こ・と も聞き取れません。部長は英語がわからないならさっさと帰国しろ、そんなヤツを呼んだ覚えはない、と知らん顔。これ、いまならパワハラの極致、ですね。でも、こんなのが商社の日常でした。大阪支店でも、それが出来ないなら死んだほうがマシやと怒鳴られていた同僚を横目で見ていましたから。それでも、一日が終わると一杯呑みに誘われ、酒が飲めないヤツは仕事が出来ないと私をサカナにご機嫌。
その後、時が過ぎて、これが上司の部下の育て方だとわかりました。上司は太平洋戦争従軍から復員して、GHQの財閥解体で会社を追われて一から会社の再建を志していた人たちでしたから、ヒヨコを雄鶏に育て上げるには情け無用、オレの苦労を踏み越えて行くものだけが生き残れ。
やれやれ、「海外に雄飛したい」とあこがれて入った会社、とんだ思い違い。
とにかく耐えて、電話がスッと取れるのに六ヵ月掛かりました。それを助けてくれたのはセクレタリーのおばさん、ミセス サーマ。彼女はチェコのプラハからのナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人でした。家族すべてを捨てて、モーツアルトのピアノ譜だけを胸にいだいてモルダウ川を渡って逃げたそうです。ホントかどうか知りませんが、育ちの良い人でした。彼女が客先との連絡や折衝を大いに助けてくれました。
プラハから亡命したサーマさん、アムステルダムから逃れてきたドイゼントさん
共にユダヤ人。80年経っても平和はありません。
さて、豪州英語と言えばご存じI go to hospital to die つまり、I go to hospital today。今日死に行くでもあるまいに、なにがトゥダイだ!これはロンドン下町の方言ですが、今でもオーストラリアの首相や政治家の話にも出て来ます。
ところがこの英語に一日浸かっていると、慣れでしょうか、トゥダイがトゥディに聞こえてしまうのです。人間の脳はbloody flexible ブラデー フレキシブル(伸縮自在)、このbloodyは豪州人の大好きな形容詞で、毎日聞かない日はありません。
日本語に訳すとすれば、若者が乱用する「めっちゃ」でしょうか。
bloody nonsense, bloody beautifulなど, bloody usefulです。
一年後、子供たちが現地に合流して近くの教会幼稚園に行きだしました。「今日は何をしたの?」と聞いたら「今日はお絵描きで赤ちゃんを書いたの」と英語で
”Today, I painted a baby.”「 トゥダイ、アイ パインテッド ア バイビー」
長女の通った教会の幼稚園、日曜礼拝は現地の生活に溶け込む最良の場。オーストラリアの人々は bloody charming!
結局、五年現地で住んで仕事をした結果、分かったことは慣れてしまうと、英語を聞いても脳が日本語に訳さずとも理解でき、英語で話すときは脳が日本語から英語に訳さずに口から自然に出て来ることです。つまり、英語で考えるとはこういうことだとワカリました。
でも、これは私が英語に流暢だということではありません。例の上司は東京人で、酒を呑むと「お前の英語は大阪弁だ」とバカにしていました。確かに大阪人の話す英語のイントネーションは東京人のそれと違います。普段テレビを見ていても標準語で話していても大阪から来た人だとわかりますね。
当時私も悩んで、豪州人に相談しましたが、あとでわかりました。
トゥディをトゥダイという人に相談する方が、bloody stupidだと。
Ta! ター!(現地で多用されているThank you ありがとう)
更新日:2022/09/21
Category: 練習風景