おあしすタイム:香山明さんへ 14回生からの追悼メッセージ


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              楽楽の”おあしす”タイム

 

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     “ 思い出 ”

14回生の大切な大切な仲間 香山 明さん が亡くなりました。

悲しいです。寂しいです。

60余年の間にたくさんのたくさんの思い出を残してくれました。

一つ一つの思い出を綴りながら彼を偲びたいと思います。

14回生一同

 

【1】 “ 姫路分校時代の香山さん ”                  

S.M 記

  私たちの大切な友人香山さんが旅立ちました。

 今では姫路分校を経験した希少な存在となった私なので、姫路時代の香山さんの思い出を綴りたいと思います。

 入学時、垂水在住だった私は姫路分校に通学することになりました(たこ足と揶揄されてましたね)。

 馴染みのない姫路への通学は少し不安でしたが、マンドリンクラブ入部によってその不安はすぐに解消しました。

姫路分校は寮生や下宿学生が多く、彼らが醸し出す独特の雰囲気がありました。お世辞にも清潔とは言えない身なりの学生たち(ごめんなさい)が学内を闊歩していたのです(白パンにつっかけスタイルって分かります?)。

マンクラメンバーも違わず自宅通学は香山さんやSさん、私など5人くらいで、多くが寮生、下宿生でした。

 マンドリンの魅力に魅かれると同時に、この分校独特の雰囲気が新鮮で面白くて私はマンクラにドップリはまってしまいました。

そんな私たちの中心にいたのが香山さんでした。部長として、地元姫路出身者として、個性の強い面々の纏め役として存在感を発揮していました。

 姫路という環境は皆が仲良く纏まる要因になったと思います。

地元出身の香山さんは姫路への想いが強く、その言動は姫路愛にあふれていました。(自慢とも言う?)

おかげで姫路城や書写山、なごやま、駅前商店街、喫茶店など、香山さんによる姫路体験学習は楽しく充実したものになりました。(皆、授業何回さぼったのかな?)

 私たちは香山さんのお宅にドヤドヤと押しかけたこともありました。また、お母さまが亡くなられた時、皆でお通夜に伺ったのですが、その時の香山さんの大人の対応に私は「えらいなあ」と、とても感心し、折り目正しい素顔を見た思いがしました。 

普段は冗談やアホなことを言いあって笑いが絶えない仲間にも、あるべき振る舞いがあることを教えられたのです。

 

 

 

 香山さんの思い出をたどる中で、村上春樹の言葉がつくづく腑に落ちました。

『思い出をつくるのはすごく大事なことなんです。思い出は燃料になるわけ、人生の。年とってから、その燃料があるとないとでは、人生のクオリティが違ってくるんです』(朝日新聞記事のまま)

  <姫路分校に始まり六甲台に続き、今また楽楽に繋がっている>

という人生の思い出は燃料として蓄積されました。

     私は残る人生のクオリティも維持していきたいと思います。

   こんな思い出の一歩を提供してくださった香山さんに感謝しています。

     香山さん、楽しい思い出を本当にありがとうございました。

 

【2】 “ 香山明さんのこと ”                     

A.N 記

   想い出が多く有りすぎて、どの話しをしようか迷いましたが、

   私は楽楽初期の頃の合宿の想い出を書いてみます。

 合宿の1回目は1995年11月のこと、その頃はまだ合奏団の名前もなく、会場は

R.Kさんの紹介で会社の研修所を、社員と同じ条件で利用させていただきました。

ココス三田研修所と呼ばれ、後にフューイン三田研修所になりました。

この会場が環境(山の中の一軒家なのに超モダン)、設備(広間は床暖房)、お値段(超安くしかも貸し切り)、全てがとても良かったので、その後2006年まで21回も利用させていただきました。

 私たちの名前も<楽器で遊ぼう会>⇒<楽器を楽しもう会>⇒<楽楽・神戸>と変わっていきました。

 

 

 

 楽しい合宿が年2回と恒例化され、合宿のないことなど考えられなくなり、香山さんは皆勤参加。担う役割は、元銀行員ということで「会計」、そしてお酒の大好きな香山さん「酒類調達係」でした。

 厳しい練習の後、夕食はたいてい「すき焼き」、周りに気兼ねなく、美味しいお酒を頂くことができました。その後二次会は床暖の効いた広間で、気まぐれに楽器を弾いたり、有志の合奏を聴いたり、ゲームをしたり・・・。

 そのゲームの中で強く印象に残ったのが、2001年夏合宿の「Back to the Future」です。

前もって幼少期の写真を係に渡しておき、係がグループの数だけコピーを取り、「さて、私は誰でしょう」ということで、グループで相談しながら「誰の小さい頃の写真か」を当てます。

 グループ毎に「あの人だ、いやちょっと違う」などワイワイ言いながら決めていき、それがどれだけ当たるか、正解の発表を待ちます。戦前生まれの人の写真もあり、ばあやに抱っこされた人など、大変盛り上がりました、

その時の香山さんの写真を披露します。

 

 

 ちゃんとした写真館での撮影、モダンなエプロンの衣装。いいとこの坊ちゃんだったと、うかがえます。キリッと結ばれた口元は晩年になっても変わらなかったようですね。

香山さんは一発で当てられてしまいました。その時の照れに照れた顔は忘れられません。

  14回生の同期、ジューシー会の一員として、なくてはならない人でした。

    それだけに喪失感大きく、早すぎる別れに涙しています。

  香山さん、いろいろありがとう!!

    安らかにお眠りください。

 

【3】 “ ワイン城での香山さんとの想い出 ”              

H.K 記

 阪神大震災のあった翌年(1996年)の4月、大なり小なり被害があったものの幸いみな無事だったことを感謝し、<楽楽・神戸>の14回生メンバ-に関東からはT.Aさん、T.Kさん、同じくT.Kさん、Y.S夫妻そして神戸在住のH.Kさん、Y.Tさんが参加され西区のワイン城にて1泊2日で集いました。

 午後、何曲か卒業以来の合奏を楽しみました。夕食はしゃぶしゃぶ鍋、ビ-ルとワインで、すっかり盛り上がり、気付けばつまむものが何もなく、「お料理これだけ?」という女性陣からのクレ-ムで幹事の香山さんとM.Tさんが慌てて追加注文したのでした。これはその後、笑いの種になる想い出です。

 

 

夕食後は場所を和室に替えての2次会で日本酒を〝ついでつがれて″さらに盛り上がり、そして今度は記録にも残るハプニングが起きたのです。

 香山さんを含めた3人が、座敷で〝川の字″になって酔いつぶれていて、ときにはその〝川の字″も乱れたとかでデジカメ写真を証拠として撮られたのです。

 当人はその間の意識はまったくなくて記憶にもないという、初めての不思議な泥酔体験でした。後日、写真を見せられては認めざるを得ないといった全くお恥ずかしいハプニングです。もちろんその後、ひそかに仲間内で笑いの種になった強烈な想い出です。

翌日は、車に分乗して北区のフル-ツフラワーパークへ。

ランチの席では、昨夜のことを揶揄されているのか、周りの視線が、‟川の字二人″のほうに集まっているようです。すっかり酔いも冷めて、‟身に覚えがない″といったような憮然とした表情の香山さんには、当人も全く同感です。後ろ姿ですが、‟川の字のもう一人″も香山さんを見ているようです。

 

 

   香山さんが逝ってしまった

    我らの部長の香山さんが逝ってしまった

   14回生アンサンブル<セロ>の香山さんが逝ってしまった

    泥酔仲間の香山さんが逝ってしまった

 

 香山さん

  彼岸はどんなところ

   星になって空から此岸を見ているのかな

    我々もそのうちそっちに逝く運命(さだめ)

     そっちで逢えたりできるのかな

      運よく逢えたら泥酔の想い出など語ろうね

此岸から哀悼の意を込めて 

 

【4】 “ 阿波踊りの思い出 ”                    

M.T 記

 「香山さんが114銀行の徳島支店におられるうちに阿波踊りに行きたいね」という相談がまとまり、平成9年(1997)8月15日香山さんのお世話で徳島行が決まり、「見る阿呆」ではなく「踊る阿呆」が実現することになりました。一行は14回生と家族で6名、15回生2名、他1名の合計9名で参加することになりました。

当時「楽楽・神戸」はまだ誕生しておらず「楽器を楽しもう会」という名称で、登録メンバーは22名でした。明石海峡もまだ完成しておらず、神戸港から徳島まで船で行くことに。宿舎は香山さんの単身用社宅を提供していただきました。10名が寝泊まりするため、寝具やタオル類、部屋の掃除など諸準備のため、神戸からわざわざ奥様に来ていただいたとか、我々は気楽に来させていただいたのに、誠に申し訳ありませんでした。

 ユカタ、ハチマキ、女性用の編み笠類などの衣装類は、全て銀行で準備していただき、着替えた後、ベテランの方に踊りの指導を受けました。簡単そうに見えても、なかなか難しく、様にならない。何となく要領をつかんだところで、演舞場の待合場所に向う。

 演舞場では、すでに各会社やグループの連が、出演を今か今かと待っておられ、熱気がむんむんと伝わってきました。私たちもドキドキしながら、銀行の連に入れていただき、出番を待ちました。

 いよいよ本番、私たちはおなじみの掛け声に加え ♬車を買うなら114、家を建てるなら114♬ と銀行独特の掛け声をかけながら、桟敷席のお客様の前で、恥ずかしげもなく踊ることが出来ました。 楽しかった。

 

 

  

 香山さん、奥様、銀行の皆様、その節は大変お世話になりました。

      貴重な体験を、そして楽しい思い出をありがとうございました。

     心より感謝申し上げます。

 

【5】 “ みんなで行った海外旅行 ”      

S.I 記

 14回生は何事にも興味津々で、「やりたいことは出来る時に」という震災の教訓から、すぐに集まって実行に移すという、“おっちょこちょい”な集団です。

還暦を迎えるにあたって、旅行に、それも海外に行きたいねという話になり、2003年ベトナム(ホーチミンとフエ)に行きました。それはそれは楽しい旅行でした が、なぜか君は不参加でしたね。お土産話を聞いて悔しかったのか、是非次からはということで、2006年タイ(チェンマイ・スコータイ)に行きました。

それ以降、2年毎にカンボジア(アンコール・ワット)、マレーシア(コタ・キナバルとクアラ・ルンプール)、台湾(台北と台中)そしてインドネシア(ジャカルタ・バリ島ウブド)とほぼ東南アジアを行き尽し、楽しい思い出を一杯残して、2014年に終了しました。

 

 

 

 参加者は14回生とその家族で、毎回12人前後、若くして亡くなった徳永君の奥様も、ほぼ毎回参加されていました。(彼が香港に勤務していた時、押しかけて懇意になりました)

 旅行では毎回幹事や会計を決めていましたが、君はずっとカメラ係でしたね。機械に詳しいとは思えないのに、なぜと思いますが、皆文句も言わず、君の被写体になっていました。私のアルバムにも立派な作品?が数多く残っています。

 そうそう、観光地で子供たちが物売りに来ても、嫌な顔一つせず、優しく接していましたね。セロ仲間のひーちゃんと、ホテルでずっと同室やったけれど、何を話してたのか聞かずじまいだったなー。

 どの旅行だったか、集合時間になっても来ないのがいて、君が自宅に電話をすると、のんきな声で、“今お風呂から出たところ、どうしたの?” という返事。集合時間が深夜で、一日間違っていたとのことで大笑い。一日遅れで、ホテルに一人で来て、拍手喝采なんてことも。

    そんな楽しい思い出が多ければ多いほど寂しさが増します。

 

【6】 “ 香山さんの思い出 ” 

E.I 記

 一番印象に残っている思い出は何といっても“阿波踊り”。

 香山さんの会社の連の最後尾に入れて頂き、手の動きも足の動きもおぼつかないまま、フル装備の衣装(編み笠、手甲、下駄も)を着せてもらい、見よう見まねで踊りました。あの時の踊りの中での高揚感(無我の境地に近い)は忘れることが出来ません。のどの渇き、脱水症状寸前。その後のビールのおいしかったこと(私の場合は お茶のおいしかったこと!)。

 

 

 そして、ワイン城での、14回生の集まりでの血を見た事件。

 その当時、皆まだまだ若かったこともあり、宴会でのビール、酒の消費量はかなりのものだったでしょう。そんな和やかで賑やかな会での、香山さんとK女史とのやり取り。何かの拍子に何かが壊れ、ほんの少しのかすり傷と微量の出血。そこにもう一人加わったI氏と三人、何事もなかったかのように、川の字になって眠ってしまったのかな?!事有るごとに“血を見た事件”として、語られることになりました。

 この度、昔のアルバムを開いてみると沢山の思い出深い写真があります。

 合宿の写真、旅行の写真、結婚式の写真と。クラブの皆さんとの思い出が、いかに多いことかと実感します。皆で撮った集合写真の、それぞれに少し照れたような笑顔で、真っすぐ前を見つめている香山さんが写っています。ある写真には、すでに天国に旅立たれた、懐かしい人達の顔も。

 今頃は香山さんを交え、あちらの世界で楽しい宴会が始まっていることでしょう。

  どうぞ飲みすぎないで、こちらの世界でうろうろしている私たちを見守って下さい。

 

【7】 “ 香山へ ”

H.N 記

 60余年の付き合いで、いまさら「香山さん」と呼んだらお前も気持ち悪いやろうから、呼び捨てにします。

 現役時代には、お前の姫路の家に泊めてもらったり、御影のあの狭い下宿で、7~8人で雑魚寝したりもしましたな。でも下宿のおばさんは、僕らにも朝飯を食べさせてくれて、今思えばまことに厚かましいことやったけど、本当に楽しい思い出です。

3年生の時には部長として、本当によくやってくれました。上下の学年とも、仲良くやっていけるように、随分気を配っていたことを知っています。”気配りの香山”の本領発揮やったね。

 最後に会ったのは3か月前、暑い夏の白川の公園で、奥さんと仲睦まじく散歩してるところにお邪魔しました。僕のことをどれだけ認識したのかは分からんけど、会えたことを本当に喜んでくれました。

奥さんから、ガンと闘っていることは聞いていたけど、そんなことをまったく感じさせないぐらい、元気な様子やったね。これならまた時々は会える、と思ったのに。

    別れ際に「また会おうな」と握手したとき、涙ぐんでたね。

 

 

 翌日、奥様からメールをいただき、別れた直後に「仲間はほんまに有難いもんやな」と言ってまた泣きました、とありました。きっとかなり分かってくれてたんやろね。

 穏やかで涙もろくて、大変な正義漢やったと思います。曲がったこと、強者の横暴などは絶対に許せない、みたいな・・・。「荒ぶるセロ」を標榜してたけど、お前が荒ぶっているところは多分、誰も見たことが無いと思うよ。

     長い間、本当にありがとう。いずれ、また。

 

 

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 卒業時30数人いた14回生も、知っている範囲で既に10人の仲間が亡くなりました。

 その中には、君と下宿で同室だった早瀬や、同じ銀行だった桜川もいます。多分向こうでも部長面?して皆をまとめてくれていると思うけれど、我々がそちらに行った時には、先輩面をせずいつもの笑顔で迎えてくれよな。そして「ジューシー会・ザ天国」を作って楽しもうな。

 

  とりあえず さようなら

 

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[ホームページ担当]

14回生の皆様から、香山さんへの本当に温かい追悼のメッセージでした。

楽楽のホームページに投稿頂き、ありがとうございました。

 

 

 

更新日:2024/12/06